【ヒロキネマコラム第73回】森発言に見るアメリカ映画界のジェンダー的思想考察

 先月にあった一連の森発言騒動は、海外で何故ここまで波紋が広がってしまったのだろうか。海外では事実、日本国内よりもジェンダー的な思想が強く反映されているのはご存知の通り。今回のコラムでは、なぜ海外(特にハリウッド)でここまで過剰なまでに女性の社会権拡大が主張されるようになったのか、それを考察してみたいと思う。

ヒッチコック=ホークス主義から『エイリアン』シリーズへと変容していったハリウッドの女性観

『赤い河』(1948年、ハワード・ホークス)のポスター。
ジョン・ウェインがヒロインを抱いている。

 60年代までのハリウッドでは、ハワード・ホークスが撮ってきた映画における男性優位の作品内容やヒッチコック映画におけるヒロインの従属的役割のように、男性主人公で女性は従属的なポジショニングを担うのが通例であった。

 これはどこの国も同じで、日本では時代劇映画を観れば男女関係を解くのにとても分かりやすく、主要登場人物を時代劇スターたちが占め、映画の終盤に悪役とチャンバラを繰り広げる傍ら、大物女優以外の女性はそれにつき従うだけの存在であった。

 特に、監督や俳優を映画会社が支配するという五社協定が続いた日本映画界ではその閉鎖的な傾向が顕著で、映画会社に従わない者は映画界から排除され、1963年に独立しようとして大映から追放された山本富士子のように現在でも映画界に復帰することが困難になってしまった者もいる。

 こうした排他的な流れはいつ変化したか。現在に至るまで、二つの転換期が存在する。一つ目の転換期は70年代後半で、二つ目の転換期は後述する2017年だ。その一つ目の転換期とは、1977年に下院の女性議員たちが女性問題議員連盟(Congressional Caucus for Women’s Issues)を発足させたことで、この連盟が以降80年代から90年代にかけて、妊婦差別禁止法をはじめとする女性差別撤廃を目指す法律を相次いで立法させたことが、米社会のターニングポイントにあたる。

『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984年、ロバート・ベントン)

 この辺りの時代から、ハリウッドでも女性の権利主張を尊重しようとする映画が生まれ始める。

 例えば『エイリアン』(1979年、リドリー・スコット)、『ターミネーター』(1984年、ジェームズ・キャメロン)、『エイリアン2』(1986年、同じ)、『ターミネーター2』(1991年、同じ)といった戦う女性ヒロインたちの存在に、『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984年、ロバート・ベントン)や『ワーキング・ガール』(1988年、マイク・ニコルズ。幸運な女性主人公のサクセスストーリーに過ぎない作品内容だが、観客はジェンダー的視点を持つ映画として受け入れた)、『告発の行方』(1988年、ジョナサン・カプラン)といった男性優位の社会に立ち向かう女性を描いたジェンダー的視点を持つ映画が、続々と作られていった。

 90年代に入ると、有名な『羊たちの沈黙』(1991年、ジョナサン・デミ)、『テルマ&ルイーズ』(1991年、リドリー・スコット)、『クイック&デッド』(1995年、サム・ライミ)が作られた。

その一方で、ジェンダーを誤解した映画も生まれた

 このようにして、ハリウッドはヒッチコック=ホークス主義以来の転換を迎えたのだが、その一方ではジェンダーを勘違いしたジェンダー的映画”もどき”も作られた。

 例えば、先に挙げた『ワーキング・ガール』は、観客はジェンダー的視点をもつ映画として高い評価を与えて受け入れた反面、主人公の幸運によって出世を果たしたという点については誰も指摘していない。個人的には、タイトルを『ラッキー・ガール』に変えたほうが良いと思うぐらいだが、実社会の女性が誰でも彼でもこの主人公のように運を持っている訳ではなく、この映画には実力で男性優位の社会に立ち向かうというジェンダー的映画にはなくてはならない要素が欠けている。

 また、「『ファーゴ』はジェンダー的映画ではないのか」といった質問を過去に本誌のライターから受けたことがあるが、この映画は主演のフランシス・マクドーマンドを使いたいという意向で撮られた映画であって、ジェンダー的映画と言うには微妙なところである。実際、マクドーマンドはこの映画の監督であるジョエル・コーエンと1980年代に同棲し、1984年に結婚している。作品内容も一般市民が主人公ならともかく、保安官という権力側を主人公に据えた形で、この女性主人公は強い女というよりも、権力を名目に威圧的に接する保安官にしか見えない。主人公の境遇や犯人とのバトルも女性と社会との接点を問うものではないし、個人的には嫁を出演させたいというだけの為に撮られた映画に過ぎなかったのだと思う。

 ちなみに、日本の伊丹十三の「女シリーズ」も税務調査や民暴といった社会のトラブルを訴えて観客の共感を得るという名目で、実際には嫁の宮本信子を使いたかっただけの映画シリーズであり、これらもジェンダー的映画とは異なる。

 サンフランシスコに住む中国移民の女性たちを描いた『ジョイ・ラック・クラブ』(1993年、ウェイン・ワン)もまた、ジェンダー的映画とは異なるものである。この女性たちは、野獣のように道徳を欠いた男性たちから逃れ、外界と遮断されたサンフランシスコの中華コミュニティの中でひっそりと生きようとするものであり、男性との関係や中華コミュニティの外の社会との接点を描く事から逃げているという意味で、これも本来的なジェンダー的映画とは異なる。

 映画のジェンダー的映画価値を判別するには、その映画が製作されたバックグラウンドを知り、慎重に判断する必要がある。それができなければ、現在洪水のように溢れかえっているハリウッドのリベラル映画の中で溺れることになり、正しい映画の評価が困難になるだろう。リベラルなハリウッド映画が多過ぎるのは、ハリウッドの映画関係者たちも実際のところ、ジェンダーについて本質的には理解できていないのである。

第二の転換期。ハーヴェイ・ワインスタインの追放

ハーヴェイ・ワインスタイン
(映画.com)

 ハリウッドが男性優位の社会からの脱却を目指し続けていた矢先に起こったのが、2017年10月のハーヴェイ・ワインスタイン追放騒動である。少しだけワインスタイン追放騒動を振り返ってみよう。

 ハーヴェイ・ワインスタインは、ミラマックスを設立したハリウッドの大物映画プロデューサーであった傍ら、数々の女優たちにセクハラ行為を続けた人物だ。長年、女優たちは仕事の減少を恐れ告発を避けていたが、SNSによる告白がこれを明るみにすることになり、ワインスタインはハリウッドから追放され、現在では訴追を受けている。海外の情報が入りにくい日本では彼について余り報道されていないが、欧米ではこの追放騒動はビッグニュースになり、#Metoo運動まで巻き起こった。

 この騒動はハリウッドにおいて第二の転換期となった。映画業界でも多大な変化を及ぼすことになり、例えば「007シリーズ」の製作現場では「ボンドガール」の呼称は禁止され、「ボンドウーマン」の呼称を使用しなければならなくなった。「007シリーズ」では特にショーン・コネリー時代の作品における女性蔑視的表現が公開当時問題視されたこともあり、ピアース・ブロスナンやダニエル・クレイグ時代は女性が活躍する場面が増えるなど、米社会の世相を反映させたものに変化している。

 奇しくも、2017年という年は、『シェイブ・オブ・ウォーター』(2017年、ギレルモ・デル・トロ)、『レディ・バード』(2017年、グレタ・ガーウィグ)、『スリー・ビルボード』(2017年、マーティン・マクドナー)、『ワンダーウーマン』(2017年、パティ・ジェンキンス)などのようなジェンダー的映画たちが、一斉にワインスタインの追放を待っていたかのように公開された年だ。最早ヒッチコック=ホークス主義時代の男性優位の映画を作ることはまず不可能になった。

 映画以外でも、この騒動はジェネレーションZと呼ばれるネットに通じたデジタルネイティブにも、大きな影響を与えることになった。Z世代は日本で言う「さとり世代」と同じ集団で、欲を出さず現状維持を好む傾向がある。彼らは高級ブランドが広告で見せる「綺麗な女性像」に反発し、すっぴんを自撮りした「ありのままの姿」をInstagramに投稿するモデルを賞賛し、ブランドが販売戦略としてユーザーに強制しようとする美的感覚に抗いつつある。

 新型コロナで節約志向が進み、ファッション系が苦戦する中、こうした節制の動きは更に拡がっている。ブランド側も、そうした世の中の流れを読んで、低価格帯を強化する販売戦略を立てる必要がある。

過熱するジェンダー的思想

 ワインスタイン追放はハリウッドにとって第二の転換期となったが、なかには行き過ぎたジェンダー的思想も存在している。

 例えば、『リチャード・ジュエル』(2019年、クリント・イーストウッド)の劇中で、爆弾の第一発見者であるジュエルを犯人と決めつけた女性記者が男性のFBI捜査官から性行為で情報を聞き出そうとする場面があり、米国では一部で批判の声が上がった。だが、嘘の情報を基にでっち上げの記事を書き、風評被害をもたらしたという意味ではこの女性記者が悪く描かれても仕方ない部分があるし、ジェンダーを盾に誤った意見を押し通そうとする思想もアメリカでは出始めている。

 今月にあったヘンリー・メーガン夫妻の英国王室における人種差別告発騒動も、王室文化を重んじるイギリスでは賛否両論が一方で、アメリカでは夫妻を擁護する声が多くなっている。個人的には何故夫妻が今頃になって不満をぶちまけたのが不思議で仕方ないのだが、これもワインスタイン追放以来女性の権利主張に敏感になり過ぎているアメリカと、英国王室の文化を尊重するイギリスの対立構造という形になっており、ジェンダー的思想が行き過ぎた挙句、全ての物事をジェンダーにくくりつけて考えようとすれば、正当な思想を持つ人物の意見が勘違い人間たちの中に埋もれてしまう。

 そうした過熱するジェンダーのせいで、巻き添えを食らったのがウディ・アレンである。アレンはワインスタイン追放騒動の際に「ワインスタインの追放を機に魔女狩りみたいな状況になってはならない」と発言したことで、ハリウッドで孤立してしまった。だがアレンの発言の本意は、「無実の者まで疑いを掛けられて非難されるのはおかしい」という意味であったのだが、ハリウッドでアレンと余り関わりのない女優や女性映画関係者たちはこの発言を女性蔑視発言と誤解し、アレンをハリウッドから干そうとした。これが過熱するジェンダーが生む勘違いの例である。

 様々な社会課題を抱えて分断するアメリカにおいて、『スキャンダル』(2019年、ジェイ・ローチ)という映画のように、勘違いに由来する行き過ぎたジェンダー的思想は分断を更に深めることに繋がり、アメリカにとって良い方向に向かうことは無いだろう。

欧米から置いてけぼりにされた日本

 このようにして、欧米ではジェンダー的思想が大きくなっていった一方で、日本では相変わらず男性優位の社会が続いている。特に、日本の体育会系の社会ではパワハラ、セクハラは普通に行われている。医学部入試では、「入試選抜を大学の意向で決めて良い」という時代錯誤な日本の法律の内容を逆手に取り、女性受験生よりも男性を優先させる大学も存在した。

 ハリウッドでは、上記した「007シリーズ」での撮影現場における呼称変更のように既に禁止されている行為もあれば、前項で挙げたウディ・アレンの発言のように不意の発言だとしても許されない雰囲気になっている。だから、欧米の今のスタンダードで考えると、日本ではパワハラに該当しない当たり前とされている行為も、欧米人から見れば「異常で時代錯誤だ」と見られてしまうのである。

 故に、森発言とその後の記者会見における奔放な発言は、高度なジェンダー的思想を持つ海外メディアから呆れられる結果となり、今後のIOCとJOCの東京五輪開催を巡る交渉で日本側に不利に働く可能性も考えられる。実際、バッハ会長は12日に中国製ワクチンの提供を申し出てきた。

 日本が今日まで男性優位の社会という「鎖国政策」を続けてきた裏で、欧米はジェンダー的思想を高めてきた結果として、日本は欧米のスタンダードから大きく遅れを取ることになった。現在、欧米のスタンダードから遅れを取っている日本は、幕末維新に不平等条約を結ばれた時のように、欧米から馬鹿にされているのである。

(HIROKI)